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2008/02/06

岩切城の戦い

今回は趣を変えて、歴史のお話です。
仙石線の小鶴新田〜福田町間の北側は広い平地が広がり、その北側に宮城県民の森や宮城スタジアム等の施設を含む丘陵地帯があります。その西南の端に岩切城趾という中世の山城の遺構があります。利府街道から県民の森へ入っていくと、左側に岩切城趾へいく分岐路があり、道端に看板が立っています。
今から約650年前、この城で戦いがありました。室町時代の初期、皇室が南北朝に別れていた時代の事です。西暦1351年、この時代は北朝と南朝で使っている年号が違うのですが、北朝の年号で観應2年の事です。鎌倉幕府が滅亡したのが1333年、後醍醐天皇の建武の新政が始まりますが、足利尊氏が離反し、後醍醐天皇を吉野に追いやり室町幕府が成立したのが1336年の事です。幕府側と南朝側の攻防は、1338年南朝方の北畠顕家の戦死、翌年の後醍醐天皇の崩御でその後の幕府側の優勢が決定的になりました。室町幕府の初期は将軍足利尊氏とその実弟(この時代には珍しく母も同じ)足利直義が政務を分担するというスタイルでした。ところが、幕府開創10年くらい経つと、尊氏派と直義派という対立の構図が生まれてきました。
後醍醐天皇の建武の新政が開始された頃は、先に書いた北畠顕家が陸奥の国司として多賀の国府にやってきます。後醍醐天皇は鎌倉倒幕に功績のあった武士にも恩賞として奥羽領国の旧北条氏領を与えていますから、幕府側の武士と北畠氏の南朝側に与する武士とに分かれて奥羽でも各地で戦いがありました。幕府側は当初奥州総大将として、斯波家長、その後石塔義房という武将を任命しますが、石塔氏を解任し奥州管領として1345年頃2人の武将を派遣してきます。吉良貞家と畠山国氏です。2人派遣されたのは、当時の尊氏派と直義派の対立の副産物で吉良は直義派、畠山は尊氏派でした。京都で2派の抗争が始まったのが、1349年です。(観應の擾乱といいます)その抗争が奥州の2人の管領の対立抗争に波及し観應2年の正月頃から、仙台平野を舞台に各地で戦いが始まります。戦いは吉良方が優勢で畠山方は正月末頃には岩切城と新田城(現在の多賀城市新田にあったらしい)に立て籠もりますが、吉良方に包囲されます。岩切城が落城し管領畠山国氏とその父高国が自刃したのが2月12日の事です。
この時代の武将は、戦国時代の武田や上杉、織田といった戦国大名と異なり、自前の常設軍を殆ど持っていません。吉良貞家にしても奥州に来る前は、因幡や伯耆の守護でしたが、幕府の引付方の頭人という要職にあり、奥州に下向するときもそれほど多くの被官(家来です)は来なかったようです。それではどうやって戦をするかというと、元々奥州に居て土地を耕しながらの地方領主の武士を管領の権威を持って動員するのです。吉良管領の軍勢催促状は古文書として南は白河の結城氏からいわき市の飯野八幡宮の地頭伊賀氏、北は和賀郡の鬼柳氏(北上市)まで残っていて、結構広い地域に管領の影響力はあったようです。とは言っても動員された武士が戦の途中で勝手に帰ってしまうようなこともあったようです。戦に出陣する武士の方は、一族を連れて行って戦うわけですが、戦の直後に自分たちはどういう戦いをしたかを文書ににしてその戦の大将に提出し、証判(一見了という字句と花押が据えられる)を貰います。これを持って戦の後、恩賞を貰います。これを軍忠状といいます。岩切の戦いの軍忠状や軍勢督促状は「仙台市史」などに載っていますが、正月28日付の先の伊賀氏に宛てた督促状は、敵が城に落ち籠もり、今まさに合戦の最中なりと、結構生々しい迫力に満ちてますし、鬼柳氏に残る軍忠状にも畠山殿御陣に切り入りという感じで、迫力が伝わってきます。
岩切城落城の後、吉良貞家が一人管領の権威を独占するわけですが、この年の11月、南朝方の北畠顕信(顕家の弟)が多賀の府中に攻め入ってきて、吉良方と広瀬川を挟んで激戦を繰り広げ(舟丁〜長町あたりだったようです)、吉良方が敗れ一時福島県の須賀川方面に逃れます。南朝方が一時多賀の府中を奪回しますが、翌観應3年の3月には、吉良貞家は頽勢を挽回し名取方面から多賀の府中に攻め入って、顕信を駆逐し翌1353年には須賀川方面の宇津峯城に立て籠もっていた顕信を攻め、北奥方面に駆逐します。幕府中央では、将軍尊氏が最後の勝利者になりました。直義派だった吉良貞家は1353年末頃には尊氏方に帰参したようです。
こうして、南奥の覇者となった吉良貞家ですが、翌1354年末以降は全くその活動の後が見られなくなり、死没したと考えられています。
ちなみに、多賀の府中と書きましたが、この時代府中の施設が何処にあったのかはよく分かっていません。現在の国府多賀城の遺跡は10世紀頃までしか使われていなかったことが発掘調査で分かっています。おそらくは岩切城の南〜南東側の当たりではないかと推測されます。多賀城市新田地区にはこの時代の大規模な武家の屋敷跡が発掘されています。吉良殿の屋敷だったのかもしれません。
この季節になると、この戦いの事を思い出します。今頃は毎日岩切城の南に、馬のいななきや蹄の音が満ちていたのでしょうか。高砂のあたりも戦場になっていたのかもしれません。考えただけでもわくわくしてきます。岩切城の遠景を眺めそんな事を考えながら仙石線で通勤している今日この頃です。


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