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2008/02/24

”岩切城”のあとさきと吉良氏

前回のお話の続編です。

吉良氏というと殆どの方は忠臣蔵の敵役”吉良上野介”を思い浮かべるかもしれません。年配の方ですと幕末の侠客”吉良の仁吉”なんていう名前が出てくるかもしれません。
足利氏は八幡太郎義家の孫、源義康が下野足利に住み、足利を苗字にしたことに始まります。源頼朝の血流が絶えた後、鎌倉幕府の実権は平氏である北条氏が握りますが、源氏でありながら一定の地位を鎌倉末期まで保ってきたのが足利氏です。足利氏は鎌倉時代三河の守護職に任じられていました。足利一門の細川、一色、今川などはいずれも三河の地名を苗字としていますが、吉良氏もその一つで、三河の吉良荘現在の愛知県幡豆郡吉良町と西尾市に当たる地域を本領とした一族です。三河の足利一門中、もっとも家格が高いとされた名門中の名門です。平成三年に放送されたNHK大河ドラマの「太平記」でも吉良氏の当時の当主吉良貞義が足利高氏が鎌倉幕府の命で京都に向かう途上三河にとどまり、吉良貞義に鎌倉幕府へ叛旗を翻す相談をするという場面がありました。吉良家の当主は上方に近い吉良の西側(西尾市側)に住み、西条吉良とか上吉良と呼ばれていました。奥州管領となった吉良貞家は吉良氏の庶流といっても四代前に嫡流と分かれていて、吉良荘の東側を本領とし東条吉良と呼ばれていたようです。
吉良氏は足利高氏が鎌倉幕府の命を受け鎌倉から京都へ向けて発つときも足利高氏に同行しています。鎌倉幕府が倒れ建武の新政が始まると吉良貞家は後醍醐天皇の皇子成良親王、足利直義とともに鎌倉へ下り、関東廂番という親王警護のための組織の頭人となっています。2年後、足利尊氏が北条高時の遺児時行の起こした乱を鎮圧のため鎌倉に下向、後醍醐天皇親政打倒のため、鎌倉から京都へ向かうときにも同行、一度は京都に入りますが、長躯奥州から駆けつけた北畠顕家に敗れ九州へ逃れます。九州の菊池氏など天皇側の武士と博多の多々良浜で戦って勝利し、再び京都に上り、このときは北朝の天皇の勅命を貰って、南朝方を破り京都を回復します。室町幕府が開創されると吉良貞家は幕府の引付け方という裁判機関の頭人と因幡、但馬の守護になっていたと推定されています。奥州下向までの約10年は京都で政務を行っており、鎌倉進発以後では平穏な時代だったかもしれません。奥州に下向してからは、最初は北畠顕信率いる南朝方とそしてもう一方の管領畠山氏とそしてまた南朝方との戦に明け暮れています。吉良貞家は鎌倉から、畿内そして九州、畿内から奥州と仙台地区から南の東北新幹線〜東海道・山陽新幹線の全域を移動しており、また北畠顕家も九州には行っていませんが、かなりの距離を移動していて、ダイナミックな変化の時代だったことが分かります。

管領吉良貞家は名取市の熊野神社や塩竃神社に祈祷を命じ、所領を寄進したりした文書が残っています。家門の繁栄を祈っているところに中世という時代を感じます。
吉良貞家亡きあとの奥州は吉良貞家の子、治家と満家が対立し、そこに岩切城で自刃した畠山国氏の遺児国詮、奥州総大将石塔義房の子義憲、足利一門の石橋棟義が各々管領の権限を行使し混乱に陥ります。幕府は斯波家兼を派遣し、彼の子直持、孫詮持の時代に奥州探題として権力の一元化に成功し大崎の現在の古川に探題府を移し、大崎氏を名乗るようになります。
吉良氏は、貞家の子治家が1370年代に、鎌倉の鶴岡八幡宮に武蔵世田谷の所領を寄進していて、関東に移り住んだものと見られます。
貞家が奥州に下向した後、三河の東条吉良は西条吉良の庶子が入り、東条吉良を称するようになります。この子孫が吉良上野介義央です。
西条吉良氏も吉良貞家と同世代の吉良満義その子満貞以後は幕府の管領など枢要な地位にも就かず。ただ室町幕府の中では”ご一家”として特別扱いを受けたり、応仁の乱の時は禁中の警護をしたりしています。武蔵の吉良殿も特別扱いを受けていたようで、鎌倉公方と会見したときは、公方が門送りといって門のところまで見送ったり、後北条氏が関東を支配していた時代も所領は安堵されていたようです。西条吉良氏の嫡流は戦国時代に徳川家康に討たれて滅亡しています。生き残りだった庶流の上野介の系統を高家として扱ったことは忠臣蔵のドラマの通りですが結局断絶してしまいます。世田谷吉良殿の方は旗本として幕末まで存続しています。

前回の書き込みに、わずかながら反響(一人だけですが)あったので続編を書いてみました。
次回はそろそろシーズンも始まるサッカー他スポーツの話題を書く予定です。



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