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2008/08/06

昔の人の死

しばらく日記更新をさぼっていました。
本HPの私の写真を更新しました。医療館3階の院長室で撮ったものです。

今日は歴史のお話です。
最近、人物叢書という歴史物のシリーズで室町幕府の第四代将軍”足利義持”を読んで、彼の病状に医師としての興味がありました。徳川時代になると資料も多く残っているので、「徳川15代将軍のカルテ」という本になっています。この時代になると、胃ガンや脳卒中といった現代病に近い病気と食べ物が良くなったのか脚気による心不全が死因として出てきます。中世以前になると感染症が多くなります。
足利義持に話を戻しますと、応永35年の正月に彼は43歳で亡くなっています。当時は将軍には護持僧という真言宗の高僧が病気などの平癒を祈祷するためについているのですが、義持には彼の父義満の時代からの護持僧で醍醐寺の満済という僧侶がついていました。醍醐寺は山科の南の京都では洛外の離れたところにあるお寺ですが、満済さんは洛内にも法身院という室町幕府にちかいお寺に拠点を持っていて、詳しい日記を残していますので、将軍義持の病状経過が分かるのです。応永35年は西暦1428年です。正月は平穏にあけ、2日と4日に管領邸に将軍の渡御があり、6日には父義満の菩提寺鹿苑院に詣でています。ところが、7日に入浴中におしりに出来たでき物を掻き破ってしまい、熱が出ます。8日には僧侶6人で平癒を加持祈祷しています。9日に医師の診察を受け、傷が盛り上がってきているので、大事には至らないだろうという連絡が満済のところに来ています。ところが翌10日には座ることも出来なくなり、11日には満済のいる法身院に行く予定をキャンセル。この日は幕府の評定始(現代で言えば初閣議でしょうか)があり、近臣に手を引かれてわずかの時間出席します。12日は斯波義淳邸へ行く予定をキャンセル。13日は満済と室町御所で会うのですが、傷はますます腫れあがり横になって対面しています。これを見て満済は事態の深刻さを認識し自ら加持祈祷の他、各寺院の高僧に祈祷を依頼しています。15日は山名家で椀飯という行事の予定を山名を将軍の寝所に呼んで行っています。他の公家の日記によれば、このとき傷は腐って来ていたと書かれています。16日には重体に陥ります。17日になると管領畠山満家はじめ斯波、細川、山名ら幕府の重臣たちが満済のもとに集まります。議題は将軍の跡継ぎをどうするかということでした。第四代将軍と書きましたが、義持は5年前に息子の義量に将軍職は譲り実権は握っていたのですが、その義量は将軍になって2年で病死し名目上は将軍職は空位で室町殿として幕府のトップであったわけです。義持は後継者を指名しないで18日に亡くなります。
死因はでき物の化膿から、敗血症になったものと思います。43歳の壮年男子としては、実にあっけない死に方です。現代の医療からすればおしりのでき物を破った時点で抗生物質を内服しておけば治ったでしょうし、12〜3日の状態でも抗生物質の点滴と化膿した傷の外科的処置で大丈夫という程度の話です。傷が盛り上がって来たのを治癒の段階と観た医師のみたてちがいもありますが、当時は加持祈祷くらいしか手はなかったものなのか、その辺はよく分かりません。
歴史的側面に話を戻しますと、このとき義持が後継者を指名しなかったため、僧門に入っていた義持の4人の弟の中から籤引きで将軍を選びます。この籤は満済が作って、管領畠山満家が石清水八幡宮の神前で引いて、当たったのが青蓮院義円、後に赤松満祐に暗殺される足利義教です。
義持の父足利義満も呼吸器系の感染症で発病から5日で亡くなっていて、抗生剤など良い薬で現代人は人生の時間を延ばして貰っていると感じています。
ちなみにこの応永という元号は35年続き、明治が45年続くまでは、日本史上最長の年号でした。昔は、甲子(きのえね)と辛酉(かのととり)の干支は天命が変わる年とされ改元するのが習わしでしたから、昭和のように60年以上続く年号はあり得なかったのです。



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